2010年代のアジアン・マトリックス―『クリサリス / 1』

この世の中には2種類の人種がいる。 『マトリックス』が好きな人間と、それ以外だ。 ここでいう『マトリックス』とは、当然ウォシャウスキー兄弟(後に姉妹)監督作品『マトリックス』とそれに連なる同シリーズのことである。1999年の映画第一作が公開されるや否や、そのビジュアルの持つ圧倒的な革新性でマトリックスの影響は全世界に広がった。 特に一部の感受性の高い若者が次々にマトリックスに”感染”し、その影響は目に見えてあらわれた。症状はそれぞれ人によって異なるが、報告されている中でも代表的なものを以下にあげる。 症例1:全身黒尽くめのファッションを好む様になる(ロングコートなど) 症例2:真っ黒なサングラスをかけたがる(努めて表情は殺す) 症例3:両手にエアガンを持って鏡の前でポーズをつけたがる(SMGでも可) 症例4:マーシャルアーツにかぶれだす(ボクシングやレスリングは不可) 症例5:突然実存的な面倒くさい事を言い出す(学校の友達に) 上記のような個人レベルの感染も凄まじい勢いで広がっていたが、メディアやその他の映像作品に対する感染の度合いも深刻であり、結果的にこれが個人への感染速度をより速める事になった。当時映像メディア等で多くみられたマトリックス的症状は以下の通りである。 症例1:高速度撮影やマシンガン撮影を用いたようなバレットタイム演出 症例2:発射された弾丸が大気をゆがめて飛んで行く弾道表現 症例3:人間があり得ない格好で仰け反って、何かを避けるエビ反り演出 症例4:宙を舞うようなワイヤーアクション 症例5:高い場所からの自由落下からの見事な三点着地 以上の症状は単にマトリックス感染症のごく一部の発症例であり、また『ジョン・ウー病』や『攻殻機動隊病』との合併症の可能性も高いので、一概にマトリックスのせいだけとは断言できないので注意が必要である。 しかし、その感染のあまりの広がりゆえか人々に抗体が備わるのも早かった。それらの革新的と思われた表現は、あっという間に手あかにまみれたものとなり、感染力は一気に低下。3部作が完結する頃には消費され尽くして、マトリックスはすでにパロディーのネタ元意外の何ものでもなくなっていたのである。 だがどんなにこすり倒されても、マトリックスはまだ死んでいなかった。三部作の完結から10年以上の時を経て、潜伏していた遺伝子が予想もしていなかった方角…インドネシアからやってきのだ! 2010年代のマトリックス。それがこの『クリサリス』という作品である。細かいストーリー等はとりあえずちゃぶ台の脇にうっちゃっておいて、とにかくこの物語の主人公エデンの姿を見て欲しい。 サングラス、無表情、黒スーツ、三種の神器を備えた完璧な主人公。まるでキャリー=アン・モスが演じたヒロイン『トリニティ』に、サンバルとココナッツミルクをぶっかけたような、潔いばかりのマトリックス・ファッションである。 さらに物語全編で展開されるアクションシーンでは、高速度撮影演出、空を裂く弾道表現、エビ反り、三点着地を次々に披露。そのてらい無く投入されるマトリックス演出は、読む側にある種の爽快感さえ呼び起こすだろう。 ほぼアクションを見せる事に終始した『クリサリス』の第1巻。続く2巻目からは謎のエージェントエデンの素性も徐々に明かされていくことになるだろう。しかし望むべくは、続刊でもマトリックス感を失速させる事無く、大仰なアクションを画面一杯で思う存分展開していただきたものである。 レビュアー:うしおだきょうじ 作品紹介 無料試し読み